1. 城のデータ
[所在地] 山口県山口市滝町
[築城年] 1864年
[築城者] 毛利敬親
[遺 構] 表門、堀など
[別 称] 山口御屋形
[形 状] 館
[登城年] 2015年4月28日
(※トップ写真:山口城・表門正面)
2. 城の歴史
幕末の変革期、長州藩は藩の方針を攘夷と定め、開国政策をとる幕府との対立姿勢を示す中、藩庁をそれまでの萩から領内の中心地にあたる山口に移すことを決める。幕府には城ではなく、あくまでも「館」として届けていたが、実態は城であった。
1864年の第1次長州征伐での敗戦により、山口城を取り壊し、一時萩に戻ることとなったが、1866年に再び政庁を山口に移し、第2次長州征伐では、政治・軍事の拠点として機能し、長州藩が勝利をおさめることとなった。明治維新後、山口城は廃城となったが、現在も城の敷地は山口県庁として利用されている。
3. 城の見どころ
山口城は幕末期に長州藩の新たな拠点として築かれた城郭(館)である。長州藩の藩主・毛利氏は1600年の関ヶ原の戦いにおける敗戦により、無念にも広島城から僻地である萩城に押し込められることとなった。念願である藩庁の移転先は、戦国時代に大内氏の居城であった高嶺城跡の麓であった。
ここに水堀を巡らせ、石垣を築き、萩城の御殿を解体移築し、標高約300mにある高嶺城跡を詰の城とした。西洋の稜堡式に似た八角形の縄張を基本としており、要所に砲座のスペースを設け、一方で敵の砲撃の目標とならないように、天守や櫓などは設けない、砲撃戦に備えた構造であったといわれる。
明治の廃城後、御殿などの遺構は取り壊されたが、山口県庁の正門に城の表門が現存している。当時3ヶ所あった山口城への出入口の一つで、切妻造、本瓦葺、薬医門形式の城門である。かつては表門のみ枡形を構成していた。主材にはケヤキと松を用いており、木割は太く実に豪快である。館とは言いながら、明治維新の原動力となった長州藩の本拠地の城郭に相応しい構えだ。表門正面からは背後に鴻嶺山がよく見える。鴻嶺山の山頂には大内氏が築き、毛利氏が完成させた高嶺城があった。
(下写真:表門正面・背後の山が鴻嶺山)
(下写真:表門側面)
また、山口県庁の敷地を取り囲むように水堀と石垣、土塁が一部残っている。水堀は要所で屈曲しており、攻める敵に対して横矢がかかる工夫がなされている。ここは日本の城郭らしい工夫だ。
(下写真:水堀)
あと、山口城の遺構とは関係ないが、県庁の敷地内には旧山口県庁舎、旧山口県会議事堂があり、大正初期の煉瓦建築として名高く、こちらもあわせて見学しておきたい。
4. 城のポイント
①明治維新の原動力となった長州藩の新城 ⇒僻地の萩城から念願の藩庁移転
②現存する薬医門形式の表門 ⇒主材は実に太い木が使われている
③水堀、石垣、土塁の一部
0コメント