1. 城のデータ
[所在地] 山口県山口市上宇野令
[築城年] 1556年
[築城者] 大内義長
[遺 構] 曲輪、石垣、礎石など
[別 称] 高峰城、鴻峰城
[形 状] 山城
[登城年] 2015年4月28日
(※トップ写真:高嶺城・頂部曲輪北側の石垣)
2. 城の歴史
高嶺城は、大内氏最後の当主である大内義長が毛利氏の侵攻に備えて、鴻ノ峰の山頂に急遽1556年に築いた山城である。翌年、義長は形成が不利となり長門国(下関方面)に逃れたが、長府の長福寺(現在の功山寺)で自刃した。
大内氏滅亡後、毛利氏が城の改修を行い、市川経好を城番として置いた。1569年に大内輝弘が山口に攻め入った時、毛利勢はこの城の守りを固め寄せ付けなかったという。その後も毛利氏の城として利用されたが、1615年に幕府から一国一城令が出されたため、1638年、高嶺城も廃城となっている。
3. 城の見どころ
高嶺城は戦国時代に、標高約338mの鴻ノ峰に築かれた山城である。周囲を山々で囲まれており、どの方角からも簡単に城に近づけない堅固な城であったといわれる。頂上部付近に主郭となる曲輪を置き、南方に伸びる尾根上に複数の曲輪群が広がっている。頂部曲輪(主郭)や、その周囲の曲輪では石垣が数多く巡らされており、礎石や瓦片なども見つかっている。
高嶺城に行くには東麓の山口大神宮からの登山道と、南麓の木戸神社から上がる道と、2つのルートがある。今回車で来ていたので、木戸神社経由で登るルートを利用した。中腹付近までは車で行き、途中から徒歩にて山道を上がった。実際に歩いてみると、なかなか険しい山だとわかる。道中、山口市街と周囲の山々を一望できるポイントがあった。これを見ると防衛上も、加えて統治上も、高嶺城はこれ以上ない立地だと感じる。
(下写真:鴻ノ峰中腹から山口市街を遠望)
しばらく歩くと最初に目に入ってくるのがNHK等のテレビ中継所がある平坦地である。ここから高嶺城の曲輪に入る。城跡の石碑と案内板がたつ。この曲輪から下側に4~5ほどの小規模な曲輪が階段状に続いており、一部石垣として利用されていたであろう巨石が散見される。おそらくは一国一城令の際に破却されたものではないだろうか。
(下写真:南東曲輪跡)
さらに登っていくと、大小様々な曲輪跡を通過していく。最初の曲輪からはL字状に曲輪が連なっており、敵が容易に登れないようになっていることがわかる。しかしながら、高嶺城は急遽築城された城だったためか、山城であるにもかかわらず、土塁や堀切が見られないのが特徴的だ。
高嶺城の一番の見どころは、頂部曲輪(主郭)付近の石垣群である。頂部曲輪は周囲の曲輪より一段高い位置にあり、周囲は険しい切岸と石垣に守られている。特に北東部周辺の石垣は良好に残されている。南側には石段を持つ虎口も確認できる。当時は高石垣を積む技術が無かったためか、高さ3m程の低い石垣が中心であるが、2段、3段となっており、なかなか見ごたえがある。
(下写真:頂部曲輪南側の石垣)
頂部曲輪にはいくつも礎石が確認でき、当時は何かしらの建物があったと推定できる。頂部曲輪の周辺は現在樹木が茂っており、残念ながら周囲の眺望が効かない。築城当初はここからも山口の街を一望できたと思われる。
(下写真:頂部曲輪跡)
4. 城のポイント
①毛利氏の山口支配の拠点 ⇒急峻な鴻ノ峰に位置する堅城
②頂部曲輪(主郭)の周囲に残る石垣群 ⇒2~3段に低い石垣が見られる
③急造のためか、山城にもかかわらず、土塁や堀切が見られない
0コメント