大内氏館

1. 城のデータ

[所在地] 山口県山口市大殿大路

[築城年] 1360年頃

[築城者] 大内弘世

[遺 構] 堀、庭園など

[別 称] なし

[形 状] 館

[登城年] 2015年4月28日

(※トップ写真:大内氏館・龍福寺山門)


2. 城の歴史

1360年頃、大内氏24代・弘世は大内御堀から山口に本拠を移し、館を築いた。大内氏は弘世以後、歴代がこの館で政務をとり、その領国は中国・九州地方にまでおよび、山口は西日本随一の政治経済の中心地となった。

大内氏は海外の交易により富を蓄積し、京の戦乱を避けて公卿・僧侶らを保護したことで、京をしのぐ富と文化を誇った。しかし、1551年大内氏31代・義隆は重臣の陶晴賢の謀反により、自害に追い込まれた。その後陶氏を滅ぼした毛利氏により1557年大内義隆の菩提を弔うため、館跡に龍福寺を建立した。


3. 城の見どころ

大内氏館は、室町時代に山口を本拠として西国(中国・九州地方)を広く支配した守護大名・大内氏の館である。大内氏は海外との交易により、異文化を移入し、京の文化を融合することで、「大内文化」といわれる独自の文化を築いた。

現在大内氏館は龍福寺の境内となっている。本堂は大内氏の氏寺であった興隆寺から移築したもので、檜皮葺の立派な屋根を持つ建造物だ。また、境内には事実上大内氏最後の当主・大内義隆公の供養塔を始め、義隆公の辞世碑、大内義興公の騎馬像など、大内氏ゆかりのものを見学することができる。

(下写真:龍福寺本堂)

大内氏館は周囲に塀を巡らし、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に築かれていた。これまで発掘調査が継続的に実施されており、その結果、数度の改修が行われ、屋敷地の広さが変化していること、4つの庭園が存在したこと等が明らかとなっている。

順次大内氏館の整備が進んでおり、館跡四方には土塁、堀跡が復元されている。また、館跡の南東側には復元庭園、石組かまど、井戸、建物跡などが整備されている。庭園は中島のある池を配置した池泉庭園である。一方で、館跡の北西側には枯山水庭園が一部復元されている。これらを見ると、室町期~戦国期にかけて隆盛を誇った大内氏の権勢を想像できる。

(下写真:整備された南東隅土塁)

(下写真:復元された庭園)

また、館跡西側の調査により、小規模な門跡が発見されており、同時期の京の風景を描いた「洛中洛外図屏風」等の資料を基に西門が復元整備された。西門は屋敷地内を仕切る門で、館の中心である内郭と外郭を繋ぐ内門であったと考えられている。


4. 城のポイント

①中世戦国の雄・大内氏の本拠地 ⇒西国一の守護大名の館

②大内氏最後の当主・大内義隆の供養塔、辞世の石碑

③復元整備された土塁、堀、池泉庭園、枯山水庭園、西門などされる

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