1. 城のデータ
[所在地] 大阪府大阪市天王寺区餌差町
[築城年] 1614年
[築城者] 真田信繁
[遺 構] なし
[別 称] 偃月城
[形 状] 平城
[登城年] 2015年12月30日
(※トップ写真:真田丸出城・真田幸村公像)
2. 城の歴史
1614年、真田信繁(幸村)は、大坂冬の陣に際し、徳川方が大坂城の南面から一斉に進攻すると見て、城の弱点を補うために、総構南側に出城を築城した。わずか1ヶ月あまりで砦を築き、大坂城から砦まで通じる暗道(抜け穴)も作ったと伝わる。
大坂冬の陣の攻防戦では、鉄砲隊を配備した真田軍が徳川方の部隊(前田勢・井伊勢・松平勢)に大勝し、その有名を天下に轟かせた。しかし、大坂冬の陣の和議が成立すると、真田丸出城は徳川方によって取り壊された。
3. 城の見どころ
真田丸出城は言わずと知れた、大坂冬の陣で真田信繁が奮戦した砦だ。その構造は巨大な丸馬出であった。絵図によると、東西二つの曲輪に分かれ、東側は玉造方面へ続く水堀で囲まれた構造であったようだが、詳細は不明である。
現在真田丸の跡地には三光神社が建っている。
(下写真:三光神社鳥居)
やや小高い丘(旧姫山)に鎮座しており、山頂には拝殿がある。末社の武内宿禰社は大阪七福神の一つ、寿老神が祀られているためか、参拝者は多かった。また、大坂冬の陣の激戦地・真田丸の跡地ということで、境内に真田丸や六文銭(真田軍の旗印)の旗などが掲げられており、戦国ロマンを少し感じさせてくれる。
(下写真:三光神社拝殿)
真田丸出城の城跡としては、現在は何も残されていないが、采配を高々と掲げる真田信繁(幸村)公の像と、大坂城まで通じていたと言われる抜け穴跡(真田の抜け穴)が、三光神社の階下に残されている。抜け穴は普段は入口を鉄門で封鎖されている。また、幸村公の像の台座は、信州上田・真田家の菩提寺「長谷寺」より取り出した石(真田石)とのことである。
(下写真:真田の抜け穴跡)
4. 城のポイント
①大坂冬の陣で真田信繁(幸村)が激戦を繰り広げた大坂城の出城
②真田信繁(幸村)公の像と、真田の抜け穴跡
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