難波田城

1. 城のデータ

[所在地] 埼玉県富士見市下南畑

[築城年] 不明

[築城者] 難波田氏

[遺 構] 曲輪、水堀など

[別 称] 難波田氏館

[形 状] 平城

[登城年] 2016年2月14日

(※トップ写真:難波田城・曲輪2(馬出)と水堀)


2. 城の歴史

難波田氏は武蔵七党の一つ、村山党の金子氏を祖とする一族で、承久の乱では幕府側として戦い、恩賞として難波田の地を与えられ、難波田氏を名乗ったと言われる。

16世紀前半に難波田善銀(憲重)が扇谷上杉氏の家臣として頭角を現し、武蔵松山城の城代も務めた。また、深大寺城の再築や河越城の奪回に尽力している。しかし1546年、河越城の戦いで、無念の最期を遂げた。その後、難波田城は北条氏の傘下に入り、北条氏家臣の上田左近が入城するが、1590年、北条氏の滅亡とともに、廃城となった。


3. 城の見どころ

難波田城は、荒川西岸に位置し、かつては周囲の沼沢に浮かぶ水城であった。「難波田」という名の通り、水害の常習地域であり、江戸時代の1772年に、村民が字面の悪さから、改字を願い出て南畑と書くようになったといわれる。

城域は荒川低地の中でも荒川と新河岸(しんがし)川に挟まれた標高約6mの自然堤防上に築かれている。城の縄張は、曲輪1(本丸、本城)の周囲に三重の水堀と、小規模な各曲輪が巡る輪郭式の構成であり、南側に大手(追手)口、北側に馬場や蔵屋敷を配置した二ノ曲輪と搦手口があった。

これまでに数十回に及ぶ発掘調査により古絵図とほぼ同じ構造であることが明らかになっている。現在はかつての城域の約1/3(南半分)が「難波田城公園」となっている。公園内には難波田城資料館、城跡を復元した「城跡ゾーン」、富士見市内の古民家を移築した「古民家ゾーン」に分かれて整備されている。

(下写真:曲輪2(馬出)入口 )

「城跡ゾーン」では、便宜上、曲輪1(本丸、本城)、曲輪2(馬出)、曲輪3、曲輪4と表記されて、土塁と水堀が復元整備されている。城の中心部、本丸にあたる曲輪1(本城)は、現在はほぼ宅地となっているが、一部が公園内となっており、「難波田氏館跡」の碑がたっている。

(下写真:曲輪1(本城)にたつ難波田氏館跡碑)

曲輪1(本城)の南側が曲輪2で、馬出にあたり、曲輪1(本城)防衛と、出撃の拠点として築かれたと思われる。また、発掘調査の際に出土した橋脚をもとに、曲輪2(馬出)と曲輪3の東西を結ぶ木橋も復元されている。

曲輪3と曲輪4との出入口部分は喰い違いい小口(虎口)で、L字状にクランクしており、敵の侵入を巧妙に阻む仕掛けが見られる。

(下写真:曲輪3の喰い違い虎口)

曲輪4の南側は追手口で、城の正面にあたり、冠木門に屋根をかけた棟門形式の城門が復元されている。

(下写真:復元追手門)

「古民家ゾーン」は、旧鈴木家表門(長屋門)、旧大澤家住宅(名主の住宅)、穀蔵、旧金子家住宅(農家、商家)など、古い民家が移築整備され、かつての農村の景観をイメージできる。また、難波田城資料館では、難波田城をはじめ、中世から現代までの富士見市の歴史、民俗に関わる資料が展示されている。


4. 城のポイント

①武蔵七党の難波田氏の居城 ⇒扇谷上杉氏の重臣として活躍した

②低湿地を活かした三重の水堀を巡らせた平城

③「難波田城公園」として復元・整備された土塁、水堀、城門など

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