高遠城

1. 城のデータ

[所在地] 長野県上伊那郡高遠町東高遠

[築城年] 1547年

[築城者] 武田信玄

[遺 構] 土塁、空堀など

[別 称] 兜山城

[形 状] 平山城

[登城年] 2016年3月21日

(※トップ写真:高遠城・桜雲橋と問屋門)


2. 城の歴史

高遠城は、諏訪氏の一族・諏訪頼継の嫡男信員を高遠に住まわせたのが始まりとされる。その後200年にわたって高遠氏が城主をつとめたが、1545年武田信玄によって落城の憂き目にあっている。信玄はこの城を要地として扱い、配下の山本勘助らに命じて拡張工事を行っている。1582年、織田信長に攻められた高遠城は、武田勝頼の異母弟・仁科盛信が防戦するも落城している。

1600年の関ヶ原の戦い後、保科正光が入城、保科正之と続き、1636年に鳥居忠春が、1691年には内藤清枚が3万3000石で入城し、以後内藤氏が明治まで居城として続いた。


3. 城の見どころ

高遠城は三峰川と藤沢川が合流する河岸段丘の突端に築かれた城郭である。その構造は本丸を三峰川の断崖上に配して、本丸を囲むように二の丸、三の丸を外郭として配置されており、「後ろ堅固の城」と呼ばれる。本丸南側には笹曲輪を、南東側には南曲輪と法憧院(ほうどういん)曲輪が、二の丸の南側には勘助曲輪が配されていた。城の縄張自体は、武田氏時代のものを踏襲して、江戸時代も使用されていたものと考えられている。

高遠城といえば、春には城跡を埋め尽くすコヒガンザクラで特に有名である。ただ、今回は桜が咲く前の3月に登城したので、それほど多くの人はいなかった。

さて、かつての城下から坂道を上がると大手門跡がある。ここには石垣が良好な状態で残っている。そこから少し歩くと、左手に移築された大手門がポツンと建っている。この門は大手門と伝わるが、改修などにより縮小され当時の姿ではない。三の丸にあった高遠高校の正門として使われていたという。

(下写真:大手門)

さらに進むと左手にかつての藩校・進徳館がある。最後の高遠城主であった内藤頼直が1860年に創設した藩学校である。撤去を免れた東西の2棟と、玄関、表門が現存する。

(下写真:進徳館玄関)

二の丸跡から本丸に入るには深い空堀を渡る必要がある。本丸東側の入口は現在「桜雲橋」が架けられ、その名の通り、桜の季節には桜色に包まれた絶景スポットとなる。桜雲橋を渡ると、問屋門が建つ。本来本丸御門は枡形で一の門が冠木門、二の門が櫓門であった。現在の問屋門は、城下の本町にあった問屋役所の門を1948年に移築したものである。空堀は堀底に降りることもできる。堀底から見上げると当時の空堀の深さが実感できる。

(下写真:本丸の空堀に架かる桜雲橋と問屋門)

本丸には内藤氏の祖神である藤原神社(藤原鎌足の社)と、高遠城で壮烈な最期を遂げた仁科盛信を祀る新城神社が鎮座する。また、本丸南西部には太鼓櫓が建つ。江戸時代には搦手門の横にあったが、1877年に現在の位置に移された。現在の太鼓櫓は1913年に再建されたものである。

(下写真:太鼓櫓)

各曲輪ともに、広く深い空堀に囲まれているのが高遠城の最大の特徴である。石垣は使われていないが、その深さ、角度ともに全国で屈指の遺構である。特に二の丸の東側付近の空堀は特に規模が大きく、約45度の傾斜をもち、幅約15m、深さ約17mに及び、城内で必見のポイントである。

(下写真:二の丸東面の空堀)


4. 城のポイント

①武田氏の縄張を踏襲した「後ろ堅固」の城郭

②各曲輪に残る空堀と土塁 ⇒特に本丸の空堀、二の丸東面の空堀は必見

③移築された大手門、藩校・進徳館、問屋門、太鼓櫓など

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