1. 城のデータ
[所在地] 長野県飯田市追手門
[築城年] 室町時代後期ごろ
[築城者] 坂西氏
[遺 構] 門、石垣、堀など
[別 称] 三本杉松長姫城
[形 状] 平山城
[登城年] 2016年3月26日
(※トップ写真:飯田城・八間門)
2. 城の歴史
現在の地に飯田城が構えらえたのは室町時代後期ごろで、小笠原氏庶流の坂西氏であるといわれる。戦国時代、甲斐の武田信玄の伊那侵攻後、この地は武田支配下に入り伊那郡代として秋山信友が入る。武田家滅亡後は、織田信長家臣の毛利秀頼、本能寺の変後は徳川家康の家臣菅沼定利が城主となる。
1590年、家康が関東に移ると、再び毛利秀頼が入るが、3年後に死去、その後娘婿の京極高知が継承し、飯田城の大改修を行った。1600年の関ヶ原の戦い後に小笠原秀政が、1617年に脇坂安元が、1672年に堀親昌が入り、以後明治まで堀氏が城主をつとめた。
3. 城の見どころ
飯田城は、東を天竜川が流れ、支流の松川と谷川に挟まれた河岸段丘の先端部を利用して築かれた。東側の先端に山伏丸を置き、西に向かって本丸、二の丸、出丸、桜丸、三の丸と6つの曲輪を配置した典型的な連郭式の城郭である。北と南側は天然の断崖となっていて、天然の要害の地であることがわかる。
城郭は明治維新後の城の取り壊しや、1947年の大火により飯田の街は城を含めほとんどが焼失してしまったため、全体的な遺構を偲ぶのは難しい。ただし、いくつかの遺構が飯田の街に分散して残っているので、それらを散策しながら当時の様子を想像すると楽しいだろう。
城内唯一の現存建築物として、桜丸御門がある。扉や柱などが赤いベンガラで塗られていることから「赤門」と呼ばれている。入母屋造の瓦葺きで、鬼瓦には堀氏の家紋がある。三の丸(桜丸)の正門として使われていた。
(下写真:桜丸御門)
飯田市立追手門小学校付近には出丸と二の丸を分かつ欅(けやき)堀が一部残る。現在は道路として使われているが、確かに高低差があり、断崖側(松川側)まで続いている。坂道の途中には立派な石垣が残っている。現在鳥居のある場所に水の手御門があった。この門は京極氏時代まで大手口であったが、小笠原氏時代に搦手口に変更されたという。現在では石垣上に民家が建てられている。
(下写真:水の手御門石垣)
当時本丸だった場所は長姫神社となっている。本丸は100m四方の規模があり、当時は本丸御殿があった。谷川に面した本丸北東側に一部土塁が残る。本丸側は石積みが施され、櫓台であったと推定される部分もある。
また、かつての二の丸御門が、1871年(明治4年)に松尾の木下家(藩主の主治医であった)に移築されている。二階建ての三間一戸の櫓門で、左右に四間ずつの長屋があることから「八間門」とも呼ばれている。若干の改変を受けているが、現在も現役の門として使用されていることは素晴らしいと思った。
(下写真:二の丸門・八間門)
あと、飯田城の北西端に位置する浄土宗の柏心寺の裏手にかつての外堀の土塁が現存する。現在は石積みとされているが、当時の飯田城の城域の大きさを伺える遺構である。このほか、経蔵寺の山門はかつて桜丸の門であった。現在の赤門が建立されるに伴い、家老安富氏屋敷に移築、その後寺の山門となっている。
(下写真:柏心寺の外堀跡)
4. 城のポイント
①信濃伊那地方の要の城
②本丸(現・長姫神社)に残る土塁、堀跡、桜丸御門、移築された八間門など
③柏心寺裏手に残る外堀の土塁跡、経蔵寺山門(旧桜丸の門)
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