皆川城

1. 城のデータ

[所在地] 栃木県栃木市城内町

[築城年] 15世紀後半

[築城者] 皆川氏

[遺 構] 土塁、空堀など

[別 称] 法螺貝城、螺貝城

[形 状] 山城

[登城年] 2016年2月18日

(※トップ写真:皆川城跡・居館部から見る)


2. 城の歴史

皆川城は永享の乱(1438~1439)の後、皆川氏が構えた城である。皆川氏は下野の地方領主として勢力を維持する。1523年、宇都宮氏が侵攻した際、皆川宗成は川原田で迎え撃ち、兄弟ともに討死するも、撃退に成功している。

戦国時代後期、北条氏・上杉氏の抗争に翻弄され、最終的には北条氏に服属する。豊臣秀吉の小田原平定の際、皆川広照は小田原城に籠城したが、落城前に徳川家康に降ったため、旧領は保証された。新たに栃木城を築き、皆川城は廃城となった。


3. 城の見どころ

皆川城は、居館部(居住空間)と、山城部(緊急避難的な空間)から構成される城郭である。戦国時代の城郭に特に多い、典型的な二元的な構成である。

まずは、山城部であるが、標高147mの城山山頂に本丸を置き、その西側に二の丸、西の丸を連郭式に配置する。東西約450m×南北約300mの規模の(平)山城であり、山腹には階段状にいくつもの帯曲輪、腰曲輪が取り巻く構造である。その独特の形状から、別名「法螺貝城」の名称がある。

皆川城は各曲輪、土塁、空堀、虎口などが現存あるいは復元されており、とてもよく整備されている。一般に山城は木々が生い茂ってしまうため、城の遺構の確認と散策が難しいことがよくあるが、皆川城では無用な木々は無くし、足元も歩きやすいように整備してくれているので大変見学しやすい。

城山の周囲には深い空堀が巡らされ、山の中腹付近には井戸跡も現存する。城山のあちこちに攻め手の左右の移動・連絡を絶つ竪堀が数条巡らされている。特に城山の南西側には、特に大きな竪堀が麓まで延びている。皆川城の最大の特徴はこの巨大な竪堀だろう。幅約9m、深さ約4~5mもあり、これでは自由に曲輪内を移動することができないだろう。

(下写真:竪堀)

いくつかの虎口と狭い曲輪を抜け、城山を登っていくと、西の丸にたどり着く。西の丸は小高い段になっている。西の丸の東側はやや広い平地となっており、これが二の丸(お花畑と呼ばれていたようだ)。二の丸からはさらに高所にある本丸を間近に見ることができる。

(下写真:二の丸跡)

山頂部の本丸には展望台が設けられていて、周辺を一望できる。周りは平地(耕地、建物など)と山々などを遠方まで見渡すことができて、とても良い眺めだ。

(下写真:本丸跡の城址と展望台)

一方、城山の山麓部(居館部)については、現在皆川公民館となっている。東西約140m×南北約100mの規模の方形状で、三方に土塁が巡らされていた。現在も西側に一部が土塁が残り、外側には水堀の跡も確認できる。

(下写真:山麓居館の水堀)


4. 城のポイント

①下野皆川氏の本拠の城 ⇒地方領主の山城

②山城部の曲輪、土塁、空堀、虎口、竪堀 ⇒南西部の山麓まで延びる竪堀は圧巻

③山麓の居館部  ⇒土塁、水堀が現存

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