熊本城

1. 城のデータ

[所在地] 熊本県熊本市中央区本丸

[築城年] 1588年

[築城者] 加藤清正

[遺 構] 宇土櫓、不開門、源之進櫓、北十八間櫓、東十八間櫓、四間櫓、十四間櫓、田子櫓、七間櫓、長塀など

[別 称] 銀杏城

[形 状] 平山城

[登城年] 2006年3月21日、2016年6月3日

(※トップ写真:熊本城・宇土櫓)


2. 城の歴史

1588年に肥後国(熊本県)北半分の領主となった加藤清正は隈本に19万5千石で入城。茶臼山丘陵を居城に選定し、坪井川、井芹川、白川を改修し天然の外堀とした。関ヶ原の戦い後に、肥後一国52万石の領主となった清正は本格的に築城を開始し、この時西日本一の堅固な城となる。

しかしながら1632年に三代将軍・家光は清正死後に跡を継いだ忠広を改易してしまう。加藤家に代わり、豊前36万石小倉城主・細川忠利が熊本に入封する。その後は細川氏が明治維新まで熊本の地を治めることになる。


3. 城の見どころ

熊本城は私がこれまで訪れた数々の城郭の中で、最高であり、かつ最強の城郭と個人的に考える城である。いろんな人から「一番良い城はどこ?」とたずねられる事があるが、迷いなく私はこの熊本城を選ぶ。その理由は3つある。

一つ目が日本の城郭遺産が明治維新後の廃城・破却活動、市街化に伴う消失、さらには日米戦争時の空襲による焼失によって城郭部分の多くが失われてしまった中、熊本城はもう一つの天守と言われる宇土櫓を始め、数々の櫓、城門、土塀、石垣、堀の保存状態は全国の城郭の中でも群を抜いているからだ。城郭遺産の保存状態としては、青森県の弘前城、兵庫県の姫路城と肩を並べるだろう。

(下写真:長塀)

(下写真:宇土櫓)

二つ目が築城の名手・加藤清正自らが縄張りしたといわれるその巧みな縄張である。周辺の河川(坪井川、白川、井芹川)を天然の外堀とし、緩やかな丘陵を利用して、何重にも石垣と櫓・城門等で防御した設計はまさしく「難攻不落」の堅城と呼ぶに相応しい。特に石垣は高く堅固だ。その底部の勾配がなだらかだが、上部はほぼ垂直に積まれた石垣は攻め寄せるいかなる敵も登ることができないだろう。また、天守に至るまでの道筋を辿っていくと、何度も折れ曲りそのたびに執拗なまでに横矢(側面攻撃)が掛けられていることがわかる。


ちなみに江戸時代以降に築かれた城郭はその太平の時代であったがために、ほとんどが実戦を経験していないが、この熊本城は1877年の西南戦争を経験している。精強な西郷軍3万を相手に新明治政府軍が立て籠もった戦いであったが、52日間の包囲戦の末、結果的に西郷軍を撤退に至らしめたのは、城の強固さを実証しているといえよう。

三つ目は城郭の復元事業が着々と進められている事だ。西南戦争で焼失してしまった大天守・小天守は戦後に復興(鉄筋コンクリート造)、その後も整備事業が進められ、近年では西大手門、南大手門、戌亥櫓、飯田丸五階櫓、未申櫓、元太鼓櫓などが再建されており、現存する宇土櫓などを含めて往時の熊本城全体の再現が夢でなくなった。さらには私が訪れた2006年3月には本丸御殿の復元工事も進められていて、現在既に完成した話も聞いた。その威容は世界遺産である姫路城に勝るとも劣らない素晴らしいものとなることだろう。

(下写真:大天守と小天守)

(下写真:西大手門)

(下写真:飯田丸五階櫓)

というわけで、熊本城こそが日本一の城と考えるわけである。個人的な好みで、世界遺産である姫路城と対比してみると、姫路城は白漆喰の城壁が特徴であり、華麗かつ女性的な城である。それに対し、この熊本城は下見黒板張りの武骨かつ男性的な感じが全く対照的である。どちらの城も文化的に素晴らしいことには変わりないが、個人的には天守を失ったものの、戦闘経験があり、実戦主体で築かれた熊本城をお奨めしたい。

熊本城は熊本市のシンボルであり、当時最も盛んであった日本の城郭技術を凝縮した最高傑作の城だ。他の城もこの熊本城と同様に将来的に復元事業・整備事業を今後一層進めてもらいたいと思った。


4. 城のポイント

①七基の巨大櫓が林立した史上最強の大城郭 ⇒加藤清正が築いた渾身の城

②宇土櫓を始めとする櫓群 ⇒現存する櫓8基、城門1基 

③「清正流」といわれる高石垣  ⇒宇土櫓周辺の高石垣が一番見応えがある




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