1. 城のデータ
[所在地] 兵庫県加古川市加古川町本町
[築城年] 鎌倉時代
[築城者] 糟屋有数
[遺 構] なし
[別 称] なし
[形 状] 平城
[登城年] 2016年6月21日
(※トップ写真:加古川城・称名寺山門)
2. 城の歴史
加古川城は、1577年に加古川評定(織田信長軍と毛利軍が戦うきっかけとなった会議)が行われた場として知られる。12代城主の糟屋武則は、当初三木城の別所長治の幕下にあったが、黒田官兵衛の推挙により羽柴秀吉に仕え、後に賤ヶ岳の七本槍の一人となり武功を挙げる。
戦国期には約90m四方の方形館であったと言われる。関ヶ原の戦いで西軍についたため、領地没収となり、のちに取り壊されたため、遺構などは現在残っていない。
3. 城の見どころ
加古川の下流、加古川橋付近の東岸付近に位置し、現在の称名寺の境内に加古川城は存在した。称名寺は真言宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来である。山門前に加古川城址を記す看板が立っているが、城の遺構は残っていない。
(下写真:称名寺入口)
城主は賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人となった糟屋武則である。七本槍の他の武将に比べて知名度が低いが、秀吉のもとで、数多くの戦いで武勲をたてている。1595年には、加古川城主1万2000石の大名になっている。しかし、関ヶ原の戦いで西軍についたため、所領没収の上改易の憂き目にあっている。
境内には地元の人が憐れんで建てた南北朝時代の7人の武者の七騎供養塔がある。これは南北朝時代、出雲守・塩冶高貞が加古川で追手に襲われた際に主君を守ろうとして憤死した侍従・7名を供養するために建てられたものとされる。後に塩冶判官のモデルとして取り上げられ、忠義話(仮名手本忠臣蔵)として紹介されている。山門を入ると、イチョウの大木があり、昔から加古川の街の目印であったという。
(下写真:加古川城址)
4. 城のポイント
①賤ヶ岳の七本槍の一人・糟屋武則の居城
②塩冶高貞侍従の七騎供養塔 ⇒後に忠義話として紹介される
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