福岡城

1. 城のデータ

[所在地] 福岡県福岡市中央区城内

[築城年] 1601年

[築城者] 黒田長政

[遺 構] 櫓、石垣、堀など

[別 称] 舞鶴城

[形 状] 平山城

[登城年] 2006年3月20日、2016年8月23日

(※トップ写真:福岡城・下之橋御門枡形・櫓門と伝潮見櫓)


2. 城の歴史

1600年の関ヶ原の戦いにおいて、東軍につき戦功を挙げた黒田長政は、豊前中津12万石から筑前52万石の大大名となった。当初前領主の小早川秀秋の居城・名島城へ入城するが、あまりに手狭であり、領国経営に適していなかった事から福崎(現在の福岡市)に新城を築城することになった。

1601年から築城が開始され大規模な造成工事により、7年もの歳月をかけて完成する。火器による攻撃を想定した堅固な防備は、加藤清正も絶賛したという。黒田家はこの後、270年間福岡藩主として君臨し明治維新を迎える事になる。


3. 城の見どころ

福岡城は丘陵を利用し、北は玄界灘、東は那珂川、西側は草ヶ江(現在の大濠公園)の入江を取り込んだ、城域8万坪という巨大な城郭であった。最頂点の本丸を中心にとして、二の丸、南二の丸、東二の丸が鍵の手状に本丸を石垣により防御し、その一段下には有力家臣の屋敷地である三の丸があった。そして本丸、二の丸、三の丸を大きく取り囲む形で幅50mを超える巨大な内堀が取り巻いていた。

福岡城の特徴としては、城の中核部にあたる本丸、二の丸において外郭ラインに折れを多用した厳重な構えである。攻め手が何度も折れ曲がらなくてはならず、その間至るところから守備側の攻撃を浴びるような仕掛けが盛り込まれている。石垣は高く堅固に積まれており、さすがは築城の名手と言われた黒田家の居城と思わせる。

現存する遺構としては、三の丸の伝潮見櫓、南二の丸の西隅櫓とそれに続く多聞櫓、本丸の祈念櫓、三の丸大手にあたる渦見門などがある。いずれも下見板張の意匠であり、全体的に素朴で武骨な印象を与えている。

(下写真:南二の丸多聞櫓と北隅櫓)

本丸には巨大な天守台のみが残っている。その大きさは近づくと圧巻である。大天守、中天守、小天守と、珍しく横並びに石垣のみが存在するのだが、かつて天守建築が建っていたかどうかは文献に残されておらず、不明とされている。江戸幕府全盛の時代ということを考えれば、徳川将軍家に配慮して敢えて天守を建てず天守台のみの姿だけであったのかもしれない。

(下写真:天守台石垣)

-再登城後の追記-

2016年8月、仕事の出張で福岡に行った際、およそ10年ぶりに福岡城を訪れた。相変わらず、その城域の大きさと石垣造りの堅固さは目を見張るものがあると感じた。

今回訪れた際、大手門にあたる下之橋御門一帯が復元整備されていた。2000年の不審火により門(上述の渦見門)が焼失してしまったが、2008年に二重櫓門として復元された。以前訪れた時は復元整備前だったので、ようやく往時の姿を見ることができた。二重櫓門は切妻破風であり、妻面に小庇がつく珍しい形状である。背後に伝潮見櫓が建つが、これは本来の位置ではなかったことに注意した方がよい。

(下写真:下之橋御門の櫓門)

存在したか不明の福岡城天守であるが、最近にわかに存在論が浮上しており、五重の大天守の復元CGなどがつくられているようだ。城内には石垣、櫓、水堀の他、名島城から移築された名島門、母里太兵衛屋敷長屋門などの遺構も残されている。

(下写真:名島門)

4. 城のポイント

①47基の櫓が林立した黒田家52万石の巨城 ⇒戦の天才黒田家が築いた北九州一の大城

②折れを多用した石垣群 ⇒本丸から二の丸にかけての石垣には複雑な塁線で備えられている 

③現存する櫓  ⇒伝潮見櫓、南の丸西隅櫓、祈念櫓など



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