久留米城

1. 城のデータ

[所在地] 福岡県久留米市篠山町

[築城年] 1587年、1621年

[築城者] 毛利秀包、有馬豊氏

[遺 構] 石垣、堀など

[別 称] 笹原城、篠山城、篠原城

[形 状] 平山城

[登城年] 2016年8月26日

(※トップ写真:久留米城・太鼓櫓跡石垣)


2. 城の歴史

久留米城は大友氏や龍造寺氏によって築かれた篠山城に始まると言われる。1587年、豊臣秀吉による九州平定後、毛利秀包が3万5000石で入り、本格的な近世城郭を築いた。

秀包は関ヶ原の戦いで西軍についたため、改易となり、三河岡崎城から田中吉政が筑後32万5000石を領有する。吉政は柳川城を本拠としたため、久留米城には次男・吉信が入った。1620年に田中氏が断絶すると、丹波福知山城から有馬豊氏が21万6000石で入封し、城の大改築を施した。有馬氏はその後11代続き、幕末を迎えている。


3. 城の見どころ

久留米城は、筑紫平野を流れる筑後川の中流に位置する小高い丘に築かれた平山城である。筑後川を天然の堀として、北側から本丸、二の丸、三の丸、外郭を並べた連郭式の城郭であった。本丸は約14~15mの高石垣が取り囲んでいたが、二の丸、三の丸、外郭は土塁囲みであった。

本丸は中央に藩主が政務を執る本丸御殿が設けられ、それを囲むように、巽櫓、月見櫓、艮櫓、乾櫓、坤櫓、西下櫓、太鼓櫓の7基の三重櫓が築かれた。しかもそれぞれが二重の多聞櫓で連結されるという実に堅固なものであった。特に本丸南東隅に位置する巽櫓は七間×八間の大規模な三重櫓であり、天守の代用であったと考えられている。

現在残されているのは、本丸のみであり、二の丸、三の丸跡はブリジストンの工場敷地となり、外郭は市街地化されている。城の建物は全て取り壊されており、現存するのは石垣と堀のみである。本丸跡には藩祖・有馬豊氏ら藩主を祀る篠山神社と、有馬記念館、移築された東郷平八郎の記念館が建っている。ちなみに巽櫓は1974年に再建する案があったが、実現しなかった。

(下写真:巽櫓跡石垣)

久留米城の見どころは何といっても、本丸正面、南西部の高石垣であろう。城内で唯一残る水堀越しに見ることができる。かつて坤櫓、太鼓櫓が建っていたこの高石垣はあまり反りがなく、直線的であり重厚感にあふれている。本丸側からこの高石垣の上に立つことができるので、その高さを実感するといいだろう。

(下写真:坤櫓と太鼓櫓跡石垣)

本丸正面(南側)にあたる大手虎口は、一部改変されているが、近世城郭の典型的な枡形虎口として築かれている。ここを抜けると本丸御殿跡、有馬神社の境内である。本丸内にはかつてあった3つの井戸のうち、2つが現存している。

(下写真:冠木御門跡)

本丸の東側にはもう一つの虎口の東御門跡がある。搦手にあたるこの虎口の横には月見櫓が建っていた高石垣がそびえる。「月見」という遊興的な名称だが、東側からの敵の侵入を防ぐ重要な場所であった。隅部は算木積で強度を補強しており、高く直線的な勾配は見る者を圧倒させる。

(下写真:月見櫓跡石垣)


4. 城のポイント

①かつては7基の三重櫓を持った堅固な城郭 ⇒それぞれを二重多聞櫓で連結

②本丸南西側の高石垣と水堀

③本丸東側にあたる月見櫓跡の高石垣



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