助川海防城

1. 城のデータ

[所在地] 茨城県日立市助川町 

[築城年] 1836年 

[築城者] 徳川斉昭

[遺 構] 曲輪、土塁

[別 称] 助川館  

[形 状] 海防城  

[登城年] 2014年5月3日

(※トップ写真:助川海防城・本丸に立つ城跡碑)


2. 城の歴史

助川海防城は、1836年に水戸9代藩主・徳川斉昭によって築かれた海防目的の城である。当時鎖国中の日本に対して、外国船が頻繁に現れ、情勢不安の中、斉昭は尊王攘夷を唱え、海防の必要性から築城の許可願いを江戸幕府に提出した。

斉昭は家臣の山野辺義観を海防総司に任命し、太平洋を見下ろすことのできる高台の地に城郭を築かせて居住させ、外国船の無断侵入に備えさせた。しかしながら、1864年水戸藩の内乱時(天狗党の乱)に巻き込まれ、落城・焼失してしまっている。


3. 城の見どころ

助川海防城は日立市市街地と太平洋を臨むことができる高さ約40mの高台に築かれた幕末期の城郭である。実際に城跡の曲輪から東側を眺めてみると、この地が大海原を一望のもとに監視することができる要地であることがわかるだろう。

城跡は現在助川城跡公園として整備されている。主要部分の縄張はいたって単純であり、まず最高所に本丸を配置し、その下に雛段(階段)状にいくつかの曲輪を並べていくという構造である。銃砲火器の時代、また海防と外国船監視目的ということで、かつて見られた複雑な縄張は不要であったということだろう。

公園の入口から階段を上がるといくつかの削平地が設けられていたことがわかる。城の東側は二の丸となっていて、ここには養生館(ようせいかん)と呼ばれる藩校があったという。この4年後に開設された水戸の弘道館の先駆けになったということで、水戸藩の教育に対する熱意が感じられるのではないだろうか。

(下写真:養生館跡)

養生館跡からさらに上に登っていくと、雛段状の曲輪跡が見られる。決して広くはなく、細長い形状から帯曲輪ともいえる。家臣屋敷や馬場があったところらしい。また、尊王攘夷と書かれた石碑がたっている。

(下写真:馬場跡)

本丸は最高所に位置し、御殿があったとされる。東側には遠見番所が置かれており、ここで外国船を見張っていたと思われる。近くには表御門の礎石跡のみが残っている。本丸の下の段には城跡碑と説明板があり、まわりは石垣で固められているのだが、この石垣は模擬石垣とのことで、現存遺構ではないそうである。

(下写真:本丸下の段)

また、麓の助川小学校の一角に大手門跡の石碑がある。小学校のあたりにも屋敷があったそうである。

(下写真:大手門跡)


4. 城のポイント

①徳川斉昭が築かせた海防のための城郭

②高台の地に残る階段状に築かれた曲輪跡

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