萩城

1. 城のデータ

[所在地] 山口県萩市堀内

[築城年] 1604年

[築城者] 毛利輝元

[遺 構] 石垣、堀、三の丸武家屋敷の長屋など

[別 称] 指月城

[形 状] 平山城

[登城年] 2015年5月15日

(※トップ写真:萩城・天守台の石垣)


2. 城の歴史

1600年の関ヶ原の戦いにおいて、西軍の総大将となった毛利輝元は隠居を命じられ、毛利氏の所領はそれまでの112万石から周防・長門2か国の37万石に削られてしまう。国替えに伴い、完成したばかりの広島城を出て新たな居城が必要となった輝元は候補地として萩、山口、三田尻の3ヶ所を幕府に裁可を求めたところ、萩に築くことに決定し、4年の歳月をかけて完成する。

1863年、13代毛利敬親の時に山口城を築城し、幕府の許可なく藩庁を移転。萩城の建物の一部が山口城の用材とされた。1874年の廃城令により、天守・櫓などの建物が取り壊された。


3. 城の見どころ

萩城跡は激動の幕末期に、多数の志士を輩出し、明治維新を成し遂げた長州藩の居城である。現在は指月公園として整備されている。城の建物は明治の廃城令後に解体されてしまったが、美しい反りを持つ天守台の石垣や水堀、日本海に面して延々と続く垂直な石垣などが残っており、とても見どころが多い。

城は、萩市街の北端、日本海に突き出た岬状の地にあり、指月山山頂に詰丸を、その南麓に本丸、二の丸、三の丸を配置した、山城と平城を組み合わせた構造となっている。

まずは、二の丸南門跡から城内に入るのが良いだろう。二の丸は本丸を西・南・東側の三方を取り囲んでおり、東西が日本海に面する。現在は埋め立てられているが、当時は二の丸の周囲には堀が巡らされていた。南門は二の丸の中央にあたる位置にあり、萩城の実質的な大手門だったといわれる。二重の枡形虎口となっており、実に厳重なつくりであった。現在でも所々に巨石を用いた、堅固なつくりの石垣を見ることができる。

(下写真:二の丸南門跡)

二の丸を抜けると、折れの効いた幅広い(最大幅36m)内堀にあたる。かつては本丸の正門である本丸内門に至る木橋が架かっていたというが、現在は暗渠構造の石橋(本丸極楽橋)となっている。この極楽橋跡付近からは天守台、指月山を望むことができ、萩城内でも屈指の撮影スポットである。

(下写真:極楽橋と指月山)

本丸内門跡を抜けると本丸跡である。広大な本丸には政務の中心施設である本丸御殿がかつてあった。現在は13代毛利敬親が家臣と時世について語ったという花江茶亭(茶室)、旧福原家書院などの建物が移築されて残っている。

本丸内門跡から西側の天守台に続く石垣内側には、全国最大規模の雁木(城兵が石垣上に上がるための石段)が設けられている。頂部の武者走も広くとられており、守りやすいつくりであった。かつては石垣上に土塀が巡らされ、防御を固めていた。

(下写真:本丸石垣の雁木)

本丸の南西に突出して築かれているのが、天守台である。明治初年まで五重五階の望楼型天守が建っていた。萩城天守については古写真が残っており、その様子がよくわかる。破風は少なく、実にシンプルな外観であった。また、1768年の修理で寒暖差に強い赤瓦を採用されたということで、優美な天守であったと想像される。一階が天守台より張り出す構造が特徴的で、その床下を石落としている。この構造は高松城天守や熊本城天守と同じである。残念ながら天守は取り壊されてしまったが、高さ11m、打込接の天守台石垣が昔のまま残る。下部の勾配は緩やかであるが、次第に勾配が急になり、最頂部ではほぼ垂直になっている。軟弱な地盤に天守という重量物を載せるにあたり、重量を分散するための工夫といわれる。この「扇の勾配」と呼ばれる美しくも、安定感のある姿は実に素晴らしい。

さて、萩城が海に面した、一種の海城であることを実感できるのが、二の丸東側である。ここは日本海に面しており、東門跡付近から三摩地院櫓台跡まで、延々と石垣が続いている。潮入門跡付近には、1965年に土塀が一部復元されている。この辺りの石垣はほぼ垂直に積み上げられているのが特徴的だ。海辺側は石ばかりなので、非常に歩きにくいが、海側から石垣を観察するのがよいだろう。所々石垣に折れをつけたり、櫓台を設けたりして海側の防衛を盤石なものとしている。

(下写真:二の丸東側石垣)

山麓の本丸、二の丸と併せて、標高143mの指月山山頂の詰丸もあわせて見学しておきたい。本丸西門跡の北側から坂道を登ることになる。九十九折りに加えて、急坂であり、登るのはかなり大変である。詰丸は山頂付近を平地に削平して築かれ、本丸、二の丸に分かれている。山頂二の丸正面には枡形虎口が構えられている。この門が詰丸の表門である要害門であった。また、本丸の東端には裏門にあたる埋門があった。こちらも枡形虎口である。詰丸には平時6~7人の警備を担当した番士が詰めていたという。また、詰丸には至る所に石材をつくるために矢穴を開けた石材が転がっている。このことから、萩城の石垣は主に指月山の岩を利用して築かれたことがわかる。

(下写真:詰丸要害門跡)

萩市内は歴史ある城下町で、見どころが多いが、萩城関連の建物として、三の丸跡にたつ旧厚狭毛利家萩屋敷長屋は必ず見ておきたい。長屋としては全国でも最大規模の建物である。

(下写真:旧厚狭毛利家萩屋敷長屋)


4. 城のポイント

①幕末期、明治維新を成し遂げた長州藩の居城 ⇒日本海を望む岬に築かれた

②本丸、二の丸、詰丸に残る石垣 ⇒「扇の勾配」と呼ばれる天守台の石垣が美しい

③旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 ⇒全国でも最大規模の長屋


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