清末陣屋

1. 城のデータ

[所在地] 山口県下関市清末陣屋

[築城年] 1659年

[築城者] 毛利元知

[遺 構] 土塁、空堀

[別 称] 清末館

[形 状] 陣屋

[登城年] 2015年5月16日

(※トップ写真:清末陣屋・清末藩邸跡の石碑)


2. 城の歴史

清末陣屋は、長府藩初代藩主・毛利秀元の次男である、毛利元知が長府藩の支藩として清末藩を始めることを許され、1659年に築いた藩邸である。現在の清末・小川と、菊川町の大部分を含んだ石高1万石の領地であった。

藩邸があった高台のすぐ下まで当時は海が迫る立地であった。清末藩の統治期には、沖側の広大な農地を干拓したりして、藩政の充実を図っている。以来、清末は明治維新に至るまでの200余年間、城下町として繁栄を続けた。


3. 城の見どころ

清末藩は長州藩の支藩である長府藩の、さらに支藩にあたる。毛利分家のさらに分家という、江戸時代においてもなかなか珍しい事例である。当時長州藩は本藩(萩)以外に、長府藩、清末藩、徳山藩、岩国藩(幕府からは曖昧な扱いを受けた)があった。

清末は下関市の南東部に位置する。清末の地は、藩内でも交通の便がよく、背後は山、前面は海、東西を川で囲まれている立地であり、敵に攻められて難く、居城を置くには最適の地であった。陣屋は御殿山と呼ばれる小高い丘の上にあり、現在でも陣屋跡付近からは周囲をよく見下ろすことができる。

現在陣屋跡は下関市立東部中学校の敷地となっている。中学校の正門脇には清末藩邸跡の石碑と案内板がたっている。

(下写真:藩邸跡・東部中学校)

陣屋の遺構はあまり見られないが、中学校敷地南側の用水路のようになっているところが当時の空堀跡であったと想像される。

(下写真:中学校敷地南側の空堀跡)

また、中学校敷地の道路を挟んで南側には、「陣屋の池」と呼ばれる池があり、これが当時は水堀の代わりとしていたと思われる。周囲の自然の地形を取り入れて築かれた陣屋であった。

(下写真:陣屋の池)


4. 城のポイント

①長府藩の支藩の陣屋 ⇒長州藩の支藩・長府藩のさらに支藩の陣屋

②陣屋跡に残る空堀跡、「陣屋の池」 

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