1. 城のデータ
[所在地] 山口県下関市田倉
[築城年] 1864年
[築城者] 毛利元周
[遺 構] 石垣など
[別 称] 勝山陣屋
[形 状] 館
[登城年] 2015年5月16日
(※トップ写真:本丸表南西の石垣)
2. 城の歴史
1863年、長州藩の支藩である長府藩主・毛利元周は攘夷を決行し、外国船に砲撃を加えた。その結果、外国船からの反撃が馬関戦争に発展する。外国軍船からの砲撃を避けるため、それまで本拠としていた海岸に近い櫛崎の陣屋から、三方を山々に囲まれた谷間の地・田倉に居館の移転を決意する。
工事はわずか7か月ほどの突貫工事であったという。以降、長府藩は勝山御殿を本拠として幕末を切り抜けていくことになる。明治維新後もしばらくは藩庁として使われたが、1871年の廃藩置県により勝山御殿は廃城となり、建物は解体された。
3. 城の見どころ
勝山御殿は、幕末列強諸国による侵略の脅威が日本に迫る中、攘夷(外国を追い払うこと)を決行したため、諸外国の反撃に備えて築かれた長府藩の居館である。外国からの攻撃、特に砲撃戦に備えるため、堅固さを第一に考えて築かれた。まず、立地は三方を山々に囲まれ、そばを流れる砂子多川が深く狭い谷を形成していて、守りやすく攻め難い地であった。海に面する城下町・長府からは約4kmほど離れているため、海上軍船からの砲撃は届かない。また、長府や下関にも近く、交通の要衝としても藩邸を移すには最適の地であったと考えられる。
縄張は南北に3段の階段状になっており、全て石垣で構成されていた。本丸が2段になっていて、最上段に藩主の居館である本丸奥、中段に藩政を行う施設があった本丸表に分かれていた。さらにその下に二の丸、三の丸と続いていた。
現在、勝山御殿跡は近年の発掘調査を経て、地区公園として整備されており、実に見ごたえがある。まずは、三の丸から城内に入っていく。大手門跡は凹状の虎口となっていて、大手口西側の石垣だけが前方に突出したつくりとなっている。これは、横矢攻撃(側面攻撃)のための仕掛けと思われる。
(下写真:三の丸大手口の突出石垣)
大手口を上がると、二の丸に入る。二の丸は湾曲した塁線となっており、下半分が石垣で、上半分を土塁としていた。いわゆる腰巻石垣にあたるつくりであり、砲弾が飛び散るのを防ぐ目的と考えられる。
二の丸を抜けると、本丸正面(本丸表)の城壁石垣がそびえ立ち、実に迫力がある。南西の石垣は入隅・出隅をつけて敵の側面を攻める工夫がされている。また、本丸へ上がるスロープの東側は石垣が鈍角のシノギ角と呼ばれる珍しい形状をしている。この入隅・出隅やシノギ角などは江戸時代確立された軍学に基づくものであり、机上の理論が実現した実例といえるだろう。
(下写真:本丸表のシノギ角石垣)
本丸表からさらに一段上がると、藩主の居館があった本丸奥である。本丸表と本丸奥の間にも低いが石垣と、当時は水堀で区画されていた。
(下写真:本丸奥南正面石垣)
また、本丸奥の西側面の石垣は角を持たず、円弧状に続いている点が特徴的である。二の丸正面の石垣と共通する点であり、幕末期築城の特徴の一つである。
(下写真:本丸奥西側面の石垣)
4. 城のポイント
①外国との砲撃戦に対抗するために築かれた御殿 ⇒幕末期の短期間に築かれた
②城域全体に残る石垣 ⇒突出石垣、出隅・入隅、円弧状の石垣など形状が多様
③階段状に築かれた縄張 ⇒天然の地形を利用して築かれた
0コメント