1. 城のデータ
[所在地] 島根県浜田市殿町
[築城年] 1620年
[築城者] 古田重治
[遺 構] 石垣、土塁など
[別 称] 亀山城
[形 状] 平山城
[登城年] 2015年5月17日
(※トップ写真:浜田城・三丸の高石垣)
2. 城の歴史
1600年の関ヶ原の戦いにより、中国地方の大半を領有していた毛利氏は周防・長門の2か国のみに所領を減らされた。そのため、石見国は一時幕府の直轄地となった。
1619年に松坂藩主の古田重治が浜田に移されて、5万4000石の浜田藩が誕生する。当時浜田には城が無かったため、1620年から亀山と命名した地に新規築城を開始し、およそ3年がかりで浜田城は完成した。古田氏2代の後は、本多氏、松平(松井)氏が城主となっている。1866年の第2次幕長戦争では、大村益次郎ら率いる長州軍に攻められ浜田城は落城している。
3. 城の見どころ
浜田城は、浜田市街地のほぼ中央、標高約67mの独立丘陵上(亀山)に築かれた平山城である。北側には日本海(松原湾)を望み、そして南側から西側にかけては浜田川が流れるという、まさしく天然の要害の地に築かれていたといえる。
浜田城の縄張は山頂に本丸を置き、その南側下段に二丸、出丸、三丸といった曲輪を階段状に配置している。また、山麓部には三の丸を置き、御殿や蔵、役所、番所などがあった。現在でも当時築かれた石垣が城内の各所に残っている。
まずは、山麓部にある三の丸の遺構を見ておきたい。城山の東側に裏門跡の石垣が残る。現在は駐車場の敷地となっている。ほぼ垂直に積まれた低い石垣だが、大ぶりの石材を積んで、隙間に小さい石を詰めている様子がよくわかる。
(下写真:裏門跡の石垣)
また、城山の南西側に大手門跡の碑がたっている。現在は道路となっているが、当時大手門前には幅約28m、深さ約2.7mの内堀があった。
城山に登るにはいくつかのルートがあるようだが、今回は護国神社の参道から行くことにした。途中、中ノ門跡の石垣を眼下に見ることができる。中ノ門は浜田城内で最も大きな城門で、当時は櫓門が構えられていた。この門を境に山側を二の丸、平場側を三の丸と呼んでいたという。現在は民家の敷地内になっているようで、この参道から遠目に見下ろすしかできなくなっている。
(下写真:中ノ門跡石垣)
浜田護国神社を抜けると、山頂部から段々に築かれた石垣が見えてくる。その途中、津和野城から移築された城門がある。これは、浜田城に移されるまでは、浜田県庁舎に使われていたという。上方に湾曲した起(むくり)屋根を持つ薬医門形式の城門である。しかし、本来ここに城門はなかったらしい。
(下写真:津和野城移築城門)
移築城門を抜けると、浜田城内で最も高いと言われる三丸の高石垣がある。V字状にカーブして上がる所に築かれた石垣で、頭上から攻撃されたら、ひとたまりもないと感じるだろう。さらに上がると、二ノ門跡に至る。ここは内枡形の構造になっており、当時は櫓門が構えられ、本丸を守る堅固な構造となっていた。通路はL字状に曲げられており、攻め寄せる敵はここに入ると、四方から攻撃を受ける、まさに袋のネズミといった感じだろう。
(下写真:二ノ門の内枡形跡)
二ノ門跡から一段上がると、山頂部の本丸である。本丸跡は明治時代に建立された、「報国忠勇之碑」の台座のみが残るだけで特に何もないのだが、山頂からは日本海をよく眺めることができる。また、本丸の北西隅には三重天守が建っていた跡のみが残る。三重三階の望楼型で、平面規模の割に背の低いずんぐりとした無骨な天守であったらしい。天守台の石垣が全く無いため、一見するとかつて天守があったとは想像し難いだろう。
4. 城のポイント
①無骨な三重天守が建っていた城 ⇒日本海を望む望楼型の天守
②本丸、二の丸の各所に残る石垣 ⇒三丸(二の丸)の高石垣が一番の見どころ
③津和野城移築城門 ⇒浜田城の遺構ではないが、貴重な薬医門
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