中津城

1. 城のデータ

[所在地] 大分県中津市中津

[築城年] 1588年、1604年

[築城者] 黒田孝高、細川忠興

[遺 構] 石垣、堀など

[別 称] 扇城、小犬丸城

[形 状] 平城

[登城年] 2015年5月19日

(※トップ写真:中津城・模擬天守と二重櫓)


2. 城の歴史

1587年、九州平定後に豊臣秀吉は、その戦功により黒田孝高(官兵衛)に豊前6郡12万3000石を与えた。翌年から孝高は新たな居城として中津城の築城を開始する。しかし、城は完成しないまま、1600年の関ヶ原の戦いにおける戦功により、黒田氏は筑前福岡52万石へと大幅に加増され移ることになる。

代わって、細川忠興が豊前・豊後で32万石を与えられ、中津城に入った。1620年に城の修復は完了する。1632年に細川氏が肥後熊本に移ると、小笠原氏が5代続き、1717年に奥平氏が10万石で中津城に入る。以後9代、155年間中津藩を支配した。


3. 城の見どころ

江戸時代、中津藩を統治した奥平氏は、当時「蘭学」と呼ばれた西洋科学が発達した。西洋の解剖書を翻訳した前野良沢、「学問のすすめ」で知られる福沢諭吉など、多くの知識人を輩出する土壌が中津藩にはあった。ちなみに、奥平氏の藩祖は武田氏と織田・徳川氏が激突した長篠の戦いの際に、長篠城に籠城し織田・徳川方の勝利に貢献した、奥平信昌である。

中津城は中津平野の中央部、山国川から分流した中津川の東側に位置する。城の縄張は、河口のデルタ地帯を利用して、本丸、二の丸、三の丸といった主郭部を扇状に配置され、その周囲に城下町が拡がっていた。城下は総構で取り囲まれていた。黒田氏、細川氏の代に城郭の基本が築かれ、近世城郭として完成している。城の建物こそは無くなっているが、黒田氏および細川氏時代に築かれた石垣が城内に数多く残されている。

まずは、本丸下段の石垣と水堀から行くと良いだろう。ここは本丸と三の丸との間の水堀で、戦後は空堀となっていたが、近年水堀として復元されている。同時に石垣も解体修理がされており、力強さがよみがえった。

(下写真:本丸下段の石垣と水堀)

本丸内は現在、城主を祀る奥平神社、中津大神宮、城井神社、扇城神社、金刀比羅神社などが鎮座している。中でも城井神社は、黒田官兵衛が城中で謀殺したといわれる城井鎮房を祀った社で歴史を感じさせる。

本丸では、水門跡、鉄門跡付近の石垣は必ず確認しておきたい。水門跡は、本丸南西隅に位置し、左右に立石を配置し、上部に巨石を配置した見せるための石垣を見る事ができる。

(下写真:本丸水門跡)

鉄門跡は、本丸の西側で、中津川に面して開いていたという門であり、河川から直接本丸へつながるという珍しい形だ。この付近の石垣も、巨石で積まれていて中津城の見どころの一つだ。

(下写真:本丸鉄門跡の石垣)

本丸の北東側には模擬天守と二重櫓が建てられている。本来中津城に天守があったかは不明といわれる。現在の天守は萩城天守を参考にしたものという。内部は奥平家の歴史資料館となっている。今回は時間がなく、内部は見学しなかった。模擬天守が建つ本丸北側付近の石垣では、細川氏時代の石垣と、黒田氏時代の石垣との境目をみることができる。細川氏時代の石垣は丸い自然石だが、黒田氏時代の石垣は古代の神籠石を利用しているため、四角く加工されている。

この他、市内に残る中津城の遺構として、三の丸南西隅に残る西門跡の石垣と、同じく三の丸の大手門石垣がある。西門跡は城の搦手門であり、当時大手門と同じ櫓門があったとされる。

(下写真:三の丸西門跡)

大手門は、三の丸東端に位置する枡形虎口であり、現在は南部小学校の校門に沿って石垣のみが残っている。巨石を中心に積まれた石垣であり、大手として十分な迫力が感じられる。

(下写真:三の丸大手門石垣)


4. 城のポイント

①河口に浮かぶ総石垣づくりの水城 ⇒黒田氏・細川氏時代に完成した

②本丸、三の丸などに残る石垣 ⇒本丸の鉄門跡付近、模擬天守付近の石垣が見どころ

③模擬天守と二重櫓 ⇒模擬であるが、華麗な天守がそびえる

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