足柄城

1. 城のデータ

[所在地] 神奈川県南足柄市矢倉沢、静岡県駿東郡小山町竹之下

[築城年] 1537年

[築城者] 北条氏綱

[遺 構] 曲輪、土塁、堀切など

[別 称] 霞城

[形 状] 山城

[登城年] 2015年7月23日

(※トップ写真:一の曲輪と二の曲輪間の堀切)


2. 城の歴史

足柄城は正確な時期は不明だが、1536年頃に北条氏綱によって築かれたといわれる。北条氏と今川氏、武田氏との抗争の中で築かれたと考えられている。1568年、北条氏と武田氏との同盟が破綻すると、近隣の深沢城をめぐる対立が起こる。この時に、深沢城の後方の足柄城の大規模改修が行われたという。

豊臣秀吉による小田原合戦の際、北条氏政の弟・氏光が守っていたが、山中城が陥落したのを機に、氏光は小田原城に退却。徳川家康の家臣・井伊直政に攻撃されて落城している。その後、豊臣秀吉の天下統一とともに足柄城は廃城となった。


3. 城の見どころ

足柄城は、箱根外輪山から北へ派生している足柄山稜線上の足柄峠に立地する。標高は約759mと、かなり高い位置にあるが、この地は相模国と駿河国(現在の神奈川県と静岡県)の境界であり、古代以来坂東への入口として、関所が置かれた地でもあった。戦国時代は、北条氏の持城で、今川氏、武田氏との境目の城として、後に豊臣秀吉への備えとして重要視された。

城の構成は足柄峠を通る足柄古道を押さえる形(見下ろす形)で、主要な五つの曲輪が配置されている。各曲輪同士は空堀で隔てられており、土橋で連結されていた。現在でも各曲輪跡と空堀、土塁跡などが見られ、遺構の保存状態は良好である。

まず、主郭である一の曲輪については、足柄峠の頂部で、かつ城の中心に位置する。主郭であるだけに、平場となる面積は実に広大だ。中心付近には、根石列が残っている。曲輪の中央を分割するように伸びており、かつて土塀などの礎石であった可能性があるらしい。

(下写真:一の曲輪跡)

また、曲輪の北側には玉手ヶ池と呼ばれる池があり、当時は飲料水として使われていたと見られる。

(下写真:玉手ヶ池)

一の曲輪の西側は、二の曲輪、三の曲輪と続き、各曲輪間は空堀で区切られている。空堀はV字状になっており、幅広でかつ深く、戦国時代の防衛技術を観察できる絶好のポイントだ。

(下写真:二の曲輪と三の曲輪間の堀切)

一の曲輪~三の曲輪は、周辺に開けており、箱根外輪山と、天気さえ良ければ富士山を見ることができる。三の曲輪の西方に四の曲輪、五の曲輪と連続する。四の曲輪にも井戸跡(現在は枯れている)がある。

(下写真:四の曲輪と井戸跡)

空堀を挟んで五の曲輪に入る。五の曲輪は、空堀の外側に長大な土塁が巡る形態となっている。

一の曲輪から西方に、二~五の曲輪が並ぶ連結式の縄張だが、一の曲輪の東方には山の神曲輪、明神曲輪と呼ばれる曲輪も残存している。ちょうど古代、足柄の関があったところで、関所の碑がたっている。明神曲輪は現在、足柄明神社となっており、白鹿堂がある。ここからは左手に矢倉岳、右手に箱根外輪山、さらに遠方に足柄平野が見渡すことができ、素晴らしい景観である。古代、防人たちがこの地で坂東に別れを告げたとかいわれるだけに、歴史ある地であることを感じさせてくれた。


4. 城のポイント

①北条氏の箱根の防衛拠点となった城 ⇒豊臣秀吉によって落城した

②一の曲輪から五の曲輪まで連続する曲輪と、曲輪間を隔てる空堀 

③周辺の箱根外輪山、天気が良ければ富士山も遠望できる


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