岩殿城

1. 城のデータ

[所在地] 山梨県大月市賑岡町岩殿

[築城年] 不明

[築城者] 不明

[遺 構] 曲輪、空堀など

[別 称] 岩殿山城

[形 状] 山城

[登城年] 2016年1月17日

(※トップ写真:岩殿城・岩殿山と丸山公園のふれあい館)


2. 城の歴史

甲斐国の東部にあたる郡内地方を支配していたのが関東八平氏の一族・小山田氏であった。武田氏とは同盟と敵対を重ねたが、1509年以降、武田氏の有力な家臣団(親族衆)に組み込まれ、幾多の戦場で活躍している。

1582年、織田信長と徳川家康の連合軍が甲斐に侵攻した際、小山田信茂は新府城より岩殿城へ落ち延びるように提案したが、武田勝頼が岩殿城へ向かう途中、郡内地方に入ることを阻止し、武田氏滅亡の契機となった。信茂は信長に不忠を咎められて処刑され、小山田氏も滅亡している。


3. 城の見どころ

大月市のシンボルとなっているのが、標高634mの独立峰・岩殿山である。戦国時代、武田氏の重臣・小山田氏の主城として機能し、武田領の東の守りの要であった。岩殿山は急峻な岩山で、東・南・西の三方向が断崖絶壁、東側に葛野川、南に桂川、西に浅利川が流れ、天然の外堀を形成していた。特に桂川が形成する深い断崖は、かなり迫力がある。戦国時代、東国の城郭の中でも屈指の堅固な城として、駿河・久能山城、上野・岩櫃城と並ぶ、関東三名城の一つにも数えられていたという。

最寄りの大月駅から北側に望める、岩石が露出した壮大な山が岩殿山である。山の中腹付近の丸山公園には当時の天守を模したふれあいの館がある。そこから鏡岩と呼ばれる礫岩が露出した約150mの高さの崖を見上げることができる。日露戦争で第三軍を指揮した、乃木将軍が山城研究の際、岩殿山に登り、「ウサギも登れない岩山である」とため息を漏らした、ということを思わず実感できるだろう。

山頂付近まで登っていくと、揚城戸跡がある。天然の岩を利用した城門であり、格子状の門が設けられていたと伝わる。この付近の山道は人一人がようやく通れる狭い道幅であり、岩上から攻撃されたらたまったものではないだろう。また、揚城戸跡の奥には番所も設けられていた。

(下写真:揚城戸跡)

さらに上がると、馬場跡、蔵屋敷跡が続く。馬場は城内最大の曲輪であり、なおかつ岩殿山山頂、鏡岩の上部にあたる。ここに乃木将軍の碑がたっている。

(下写真:岩殿山頂の馬場跡)

蔵屋敷は武器、弾薬、食料のための保管庫であった。蔵屋敷からさらに東側に曲輪が続き、三の丸、二の丸、本丸とつながる。本丸には烽火台の跡もあった。

本丸の東側には一の堀、二の堀と呼ばれる二つの堀切があり、防御を固めていた。現在は草木が繁茂しているが、ここも見ておきたい。あと、蔵屋敷跡から西側へ少し降りた所に、人馬の水浴用とした「馬冷やし池」、炊事に用いた「亀が池」がある。このような湧き水を確保することが籠城戦を想定する中で重要であった。

(下写真:馬冷やし池と亀が池)

岩殿山を訪れたら、西方の「稚児落とし」も行っておきたい。高さ150mの絶壁は立つと思わず足がすくみそうである。

(下写真:稚児落とし)


4. 城のポイント

①武田氏滅亡の契機となった城 ⇒武田氏家臣・小山田氏の城

②天然の岩山を利用した要害堅固な山城 ⇒関東三名城の一つに数えられる 

③岩殿山山頂付近に残る曲輪跡、堀切

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