首里城

1. 城のデータ

[所在地] 沖縄県那覇市当蔵町

[築城年] 15世紀初頭

[築城者] 尚巴志

[遺 構] 石垣、石門など

[別 称] 御城(ウズスク)

[形 状] 平山城

[登城年] 2017年3月20日

(※トップ写真:首里城・正殿)


2. 城の歴史

1429年に尚巴志が琉球を統一し、琉球王国が成立、アジア諸国との活発な外交・交易が行われた。首里城の創建年代は不明だが、15世紀初頭と言われている。琉球王国は1609年に薩摩藩の侵攻により日本の幕藩体制に組み込まれつつも、明・清との冊封・進貢関係は継続された。1879年に、明治政府が首里城を接収し、国王と家臣が城を出たことで、琉球王国は崩壊、新たに沖縄県が設置された。1945年の沖縄戦により、建物や城壁などが灰燼に帰してしまった。


3. 城の見どころ

首里城は中学時代の卒業旅行で行った。当時は正殿の豪華絢爛な外観意匠を見て、驚くと同時に琉球王国の経済力の高さを感じた。今回、20年ぶりに再び首里城を訪れる機会を持つことができ、沖縄(琉球)の城郭の特徴である屈曲する城壁、大陸風の建物、城門などを見学することができた。

首里城は那覇市内の丘陵に位置しており、東西約400m、南北約200m、面積約4.7haの規模で、自然の地形を巧みに利用しつつ、人工的な造成により築かれている。首里城は大きく内郭と外郭に分かれ、内郭は創建時のエリアで、正殿をはじめ、城の主要な建物のほとんどが配置されている。外郭はその後の拡張により築かれたものとされる。

戦前の首里城は、正殿、守礼門、歓会門等が旧国宝指定を受け、かつての琉球王国の文化遺産が残されていた。しかし、1945年の大東亜戦争末期の沖縄戦において、アメリカ軍の砲撃により、建物や城壁は全て破壊された。戦後、1958年に守礼門が再建されたのを契機に、首里城の復元整備が進められた。1972年に歓会門が再建、1992年には正殿を中心とする南殿、番所、北殿、奉神門などが再建された。現在も正殿裏側に広がる御内原エリア(女性たちの空間)の復元が進められている。

首里城に訪れるには、駐車場のある首里社館(首里城の西側)から行くと良いだろう。まず、城の大手にあたる守礼門が建っている。独立した柱に屋根をかけ扁額を掲げる独特な門だ。扁額の「守禮之邦」とは、琉球は礼節を重んずるという意味とのこと。

(下写真:守礼門)

そして、大手から城内に入る所に建つのが歓会門である。屈曲した城壁にアーチ門、上部に木造の櫓が載せられている。左右に石獅子の彫刻、櫓にはやはり扁額が掲げられている。

(下写真:歓会門)

さらに階段を上がると、櫓門形式の瑞泉門、漏刻門と続く。

(下写真:漏刻門)

漏刻門を抜けると、広場があり、広福門がある。寺社座、大与座(戸籍を扱う)という役所があり、やや規模が大きい門である。広福門をくぐると、下之御庭(しちゃぬうーなー)という広場があり、その東側に奉神門が建つ。

(下写真:奉神門)

奉神門以降は有料区域である。奉神門を抜けると、台形上の御庭(うーなー)である。御庭は儀式を行う場で、東正面に正殿、南側に南殿、番所、北側に北殿と呼ばれる建物が建つ。朱色に塗られた建物と、赤瓦で統一された建物群は実に美しい。

正殿は最も中心となる建物で、沖縄最大の木造建築物である。大陸建築と日本建築の両方の影響を受けつつ、琉球建築の要素も見られる。内部も見学することができ、琉球国王が座る御差床(うさすか)や扁額なども見ることができる。


4. 城のポイント

①琉球王国の輝きを今に伝える華麗な王城 ⇒琉球王国の本城

②屈曲した城壁とアーチ門など ⇒守礼門、歓会門、瑞泉門、漏刻門など

③再建された建物  ⇒正殿、北殿、南殿・番所、御殿、書院など





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