杵築城

1. 城のデータ

[所在地] 大分県杵築市杵築

[築城年] 1393年

[築城者] 木付頼直

[遺 構] 石垣、堀など

[別 称] 木付城、勝山城

[形 状] 平山城

[登城年] 2015年5月19日

(※トップ写真:杵築城・模擬天守)


2. 城の歴史

木付城は1393年、木付頼直によって築かれたという。1586年、木付鎮直の時代に島津軍が大挙して押し寄せたものの、2ヶ月の籠城戦の末、撃退している。しかし、主家の大友氏が改易されると、杵築氏も入水自害したため、滅亡してしまう。

1600年、関ヶ原の戦いの時、細川忠興の配下・松井康之等が籠城し、復興を目指す大友軍の攻撃を受けるも、黒田孝高の援軍もあって耐え抜いた。1632年に小笠原忠知が入り、木付藩が成立、1645年に松平(能見)英親がこの地を治め、10代続く。1712年には「木付」から「杵築」へと改め、杵築城となる。


3. 城の見どころ

杵築城は、豊後の名門・大友氏の一族木付氏が築いた城である。東は守江湾に面し、南北を高山川と八坂川に挟まれた高台である台山に立地している。縄張は、台地を空堀によって4つに区切った連郭式で、東の最先端に本丸を置き、西側に二の丸、三の丸を配置している。本丸は海に突出しており、満潮時になると、守江湾の水かさが増し、城の周囲が完全に海になってしまうという、まさしく攻めるに難しい堅城であった。

現在、本丸には1970年に建てられた模擬天守があり、杵築市のシンボルとなっている。古絵図によると、天守台と書かれた場所があり、天守があったようだが、外観は全くの想像である。内部は石田三成の兄・正澄着用の兜など、貴重な遺品が展示されている。天守の建つ本丸の東端にたつと、南側に八坂川、東に守江湾を一望することができ、素晴らしい眺望である。

(下写真:高台にたつ模擬天守と八坂川)

戦国時代に城郭部であった台山には、当時空堀で曲輪を区切っていたようだが、今回の登城時に確認することができなかった。総じて山頂部の城の遺構はあまり残されていないようだ。一方で、台山の北側、山麓付近にあった藩主御殿周辺には当時の城の遺構が見られる。まずは、青筵神社東側の麓付近に御堀跡が残る。台山と藩主御殿の間に位置する。また、藩主御殿跡の北側にはかつての海岸に面した石垣の一部が残っている。これらは1600年初頭頃に積まれた割石積の石垣である。

(下写真:藩主御殿北側の石垣)

杵築城を訪れたら、ついでに城下町を探索するのが良い。杵築の城下町は実に独特の形態をしている。城の西側、南北の高台にそれぞれに分かれて武家屋敷(侍屋敷)が立地する。そして、その南北の谷間に商人の町がある。この形状から、杵築の城下町のことを「サンドイッチ型城下町」と呼ぶそうである。

勘定場の坂は、城と北台武家屋敷をつなぐ坂で、籠かきや馬の歩幅にあわせてつくられている。北台武家屋敷には、数件の侍屋敷や、藩校の門などが見られる。

(下写真:藩校の門)

南側にも同様に南台武家屋敷、寺町などがあり、随所に当時を思わせる建物が残る。城下町の中にはっきりと高低差があるのは珍しく、特に北台武家屋敷と商人の町を結ぶ酢屋の坂付近は絶景のポイントである。

(下写真:酢屋の坂)


4. 城のポイント

①川と海に囲まれた堅城 ⇒八坂川と守江湾に守られた城

②本丸に建てられた模擬天守、藩主御殿付近の御堀跡、石垣 

③北台武家屋敷、南台武家屋敷、商人の町⇒サンドイッチ型城下町と呼ばれる 

0コメント

  • 1000 / 1000