刈谷城

1. 城のデータ

[所在地] 愛知県刈谷市城町

[築城年] 1533年

[築城者] 水野忠政

[遺 構] 土塁、水堀、曲輪など

[別 称] 亀城、刈屋城

[形 状] 平山城

[登城年] 2015年8月14日

(※トップ写真:刈谷城・本丸水堀)


2. 城の歴史

1533年に水野忠政が三河へ勢力を伸ばし、刈谷城を築いて本拠にしたという。当時は今川氏の勢力が強く、近郷の松平氏とともに今川氏に仕えている。1541年には忠政の娘・於大の方が松平広忠に嫁ぎ、嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を産んでいる。

1560年の桶狭間の戦いでは水野氏は織田方、松平氏は今川方についた。今川義元が敗死すると、水野信元は松平家康と織田信長との仲介をしたという。1632年に水野忠清が三河吉田藩に移った後は、松平氏、稲垣氏、阿部氏、本多氏、三浦氏と続き、1747年に土井利信が入城して、以後土井氏が9代続く。


3. 城の見どころ

刈谷城は三河の豪族・水野氏が本拠地とした城である。徳川家康の生母・於大の方が生活した城として、徳川家とも縁が深く、以来、親藩・譜代大名が代々城主をつとめている。

城は三河国の最西部、境川河口の三河湾の入江に突き出た台地上に築かれている。西側の逢妻川(衣ヶ浦)に面して本丸を置き、西以外の三方に水堀を巡らせて、その外側に二の丸を設け、さらに二の丸の東側に三の丸を配置した梯郭式と、連郭式を併せた縄張である。現在は本丸部分が亀城公園として整備されており、土塁、水堀などが現存している。

刈谷城の遺構として目立つのは、やはり幅広の水堀であろう。本丸の東側が城池、北側が子亀池と現在は称しているが、おそらくは天然の沼を利用したものだと思われる。本丸については、周辺の曲輪よりも約5mほど高くなっている。「正保城絵図」の刈谷城を見ると、本丸周辺は石垣であったことがわかる。また、かつては2基の二重櫓(北西・南東)があった。現在は石垣はなくなっており、地固め遺構(切岸)として残っている。

(下写真:本丸地固め遺構)

本丸内は現在は一部が庭園、また「平和の塔」というオブジェなどがあるのだが、どうも雑然とした印象がある。かつて北西隅櫓があった場所には、1916年に士族会の会合場所として建てられた「十朋亭」がある。この建物の裏側には築城当初の石垣があるらしいのだが、どこにあるのか確認することができなかった。

(下写真:十朋亭)

本丸に立っていた説明板を見ると、「亀城公園再整備事業」のイメージ図が載っていた。それによると、石垣を始め、本丸の2基の隅櫓、多門櫓、表門、裏門、土塀などの城郭施設の復元整備計画があるらしい。整備されると、かつての刈谷城の雄姿が蘇ることだろう。今後の整備にぜひ期待したい。

亀城公園から南東方向に行った所に、大手門跡、藩校・文禮館跡、椎の木屋敷跡などの遺構がある。椎の木屋敷跡は徳川家康の生母・於大の方が一時生活していた屋敷跡ということで、於大の方の像とともに庭園が整備されている。跡地は市内に分散しているが、余裕があればぜひ散策しておきたい。

(下写真:藩校・文禮館跡)

(下写真:椎の木屋敷跡)


4. 城のポイント

①徳川家康生母の実家の城 ⇒三河の豪族・水野氏の城

②本丸周辺に残る幅広の水堀 

③本丸塁線上に残る地固め遺構(切岸)

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